「ミルナとはじめて会ったのは、彼女が大阪外国語大学生のときだった」 軽部は、手記
で語る。
テレビの海外取材番組を見ていて、流暢な日本語を話すユーゴの留学生にひかれた。
そして、とうとう会うことができた。 昭和53年12月のことだった。
ミルナは、オペラの「ニコラ・シュービッチ・ズリンスキー」を知っているばかりでなく、オ
ーケストラのヴァイオリニストとして 出演したこともあったという。彼女に資料収集などの
協力を依頼したら、快く承知してくれた。
昭和54年1月グリークラブ・リサイタルに、ミルナは一人の大男を連れてきた。彼の名
はヴェリメル ドゥミチッチという。 ザグレブ・アカデミー合唱団のバリトンとしてオペラに何
度も出演したとのこと。アンコールで一緒に歌いたいという。
新月会員にならんで彼もステージに登った。幕が下りて、みんな、ウ ボイのふるさとの
青年と共に歌えた喜び の握手をかわした。
【ミルナの献身的な協力】
ミルナは、熱心だった。1年半にわたって、次のような献身的な力添えをしてくれた。
- 歌劇「ニコラ・シュービッチ・ズリンスキー」の上演100周年記念プログラムの提供
(初演は1876年11月4日)
- 歌劇全曲の指揮者用ピアノスコアの提供(ザグレブ市内を探しまわるが見つからず実家のものを提供)
- 「シゲット城の町は、今はユーゴスラビアとの国境近くのハンガリー領のセゲド市」
とのレポート
- オペラ全曲のLPレコードの提供
- その他、100点を超す資料の提供
←新月会の招きで来日のミルナさん一家
(平成6年6月) <右から2人目がミルナさん>
やがて、彼女の帰国の時が来た。(昭和55年6月)
それから1年後、国営船会社ユーゴラインの一等航海士と結婚、長女モラナが生まれた。 ミルナは、国立劇場オーケストラのヴァイオリニスト、日本語教室の開講そして島崎藤村の
「破戒」をクロアチア語に翻訳するなど、日本通の才媛として大活躍。 思えば、ミルナはルーツ探索の旅にとって、欠かせない素敵なパートナーだった。
そして帰国後も、何かと協力を惜しまなかった。 彼女との縁は深い。ルーツ探索の旅のフィナーレには、この佳人が再び登場してくれるのである。
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