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ウ ボイは、当初「セルビア戦歌」とプログラムに記されていた。それが、いつの間にか
「チェコ民謡」となって、長い間歌われ続いた。
小林哲夫(昭和26年卆)は、在学中にルーツの探索に挑戦した。やっとのことで、文通
を始めたチェコのペンフレンド゙は 「チェコではなくユーゴの歌ではないか」と思いがけない
返事をくれた。 その後の手がかりはつかめなかった。 しかし、ルーツ探索の糸口が思い
がけない時と場所で、劇的なきっかけに恵まれ遂に見えてくるのである。
【ニューヨークの世界大学合唱祭でのドラマ】
関西学院グリークラブ゙は、1965年(昭和40年)世界大学合唱祭にアジアの代表とし
て名誉ある招待を受け、ニューヨークのリンカーンセンターのフィルハーモニックホールに
出演するために渡米。
合唱祭初日(9月20日)の昼食会、その時である。 劇的な衝撃が走った。
その驚きの模様をグリークラブは『亜米利加見聞録』に下欄のごとく記している。
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ユーゴ代表がウ ボイを唱和した!
(中略)南米の連中は、大はしゃぎだ。食事がまだ終らないと
いうのに、手拍子・足拍子、ほんとうに楽しくてたまらないとい
う感じで、とうとう歌いだした。
これに触発されて、「一発、やるか」とばかりウ ボイを歌い出
すとどうだろう、ユーゴの連中が立上がって調子を合わせて
いるではないか!
後で聞くと、ウ ボイイはユーゴのオペラに出てくる有名な行
進曲だと いう。 第1次世界大戦後、我々の先輩がチェコ軍に
写譜させてもらっ た『ウ ボイ』は半世紀にわたって、「チェコ民
謡」として歌われてきたのである。思いがけない収穫であった。
これには、林先生(林雄一郎・新月会会長・昭和9年卆)も
いささか驚かれた様子であった。
(関西学院グリークラブ゙「亜米利加見聞録」より要約抜粋) |
合唱祭に招待されたのは、15ヶ国20大学。昼食会で立上がって、ウボイを 唱和した
ユーゴの代表はスコピエ大学文化協会合唱団であった。 もし、この第一回の合唱祭の
アジア代表に関西学院グリークラブが選ばれなかったら、このハプニングはなかったか
もしれない。
それは、M.バーソロミュー氏(元エール大グリークラブ指揮者・当時、世界大学合唱
祭名誉顧問・世界的な合唱音楽の権威者)が、合唱祭のJ.ビョーギ監督に 「鶴の一
声」で推薦してくれた思いがけない賜物であった。
このことは、山本雅也(昭和27年卆・物故)のエール大グリーとの文通の後を引継ぎ
その後、長年に亘ってバーソロミュー氏と情報交換 をしてきた三橋廉平(昭和28年卆)
が、後日、ビョーギ氏からその ことを聞かされるのである。 ウ ボイは、奇しき因縁が
つきまとう。
【なお、続く探索の道のり】
しかし、ルーツ探索の大きなきっかけを掴んだものの、このスコピエ大のメンバーから
オペラの題名や内容について知ることはできなかった。さらに、一歩進んだ調査へと進
むには、切歯扼腕の年月を暫く過すことになる。
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