チェコ軍の通訳 大正8年(1919年)


 チェコ軍は、神戸の青年会館や県立商業学校跡の旧校舎などの施設に分宿。
当時の朝日新聞は、その時の模様を神戸の第一夜と題して次のように伝えている。

神戸の第一夜

...分宿した者が列を組んでバラックまで夕食に来る。テントの下でパンをかじり、暖かいスープを吸ううちにも賑やかな談笑の声は絶えない。食後、身体を水で洗ってほっとした彼等は港の方へ三々五々散歩に出る者、居残ってテント内でトランプに耽けるもの者などである。

中には胸をはだけて胡弓を弾きながら異国の夜のつれづれを慰める者あり、雑草の長いバラックの空地に出て夜の風に吹かれながら故郷の民謡を歌う者もあり、賑やかなことである。

10時が過ぎると(中略)灯を消して彼らは先づ故郷に残した可愛ゆき者のためにも祈るのだ。
(大正8年朝日新聞神戸版付録)

 こうしてチェコ軍の神戸滞在が始まった。が、ことばが通じない。なにかと不便だ。幸いチェコ軍のなかに英語を話せる者がいた。これを知った県の外事課長は、ふと知人の塩路義孝を通訳に、と思いつく。グリークラブの塩路だ。 塩路は快諾した。

 連日、塩路はチェコ軍宿舎を訪れる。シベリア転戦を偲ばせるボロボロの軍服、旧校舎やテントでの殺風景な生活にかかわらず、彼らは、陽気で表情は明るかった。

 数日後、塩路は彼らがオーケストラや合唱の練習をしているところに出くわした。オーケストラは50人ぐらい。コントラバスはビールの木箱に弦がわりに電線をはったもの、凹んで傷だらけのブラス等々で満足な楽器はなかった。

  チェコ軍合唱隊の方は約40人。指揮者は士官だった。彼らは、立派な体格の上に、天性の音楽性と 声質・声量を持っている。塩路は感動した。そして、思い切って自分がグリークラブの部員で あることを話し、互いに交流しょうと持ちかけた。

塩路義孝氏

関西学院グリークラブOB
・1922年(大正11年)卆
・1994年(平成6年)9月13日没・享年94

「これほどまで人をひきつける曲になるとは、夢にも思わなかった」とウ ボイについて述懐する在りし日の塩路さん。

 


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